姉が入所している施設の家族交流会に参加してきました。
家族会の総会とかは申し訳ないけど不参加ですが、交流会は別。
・他の利用者さんのことを知ることができる
・姉の家族(私)のことを知ってもらえる
・他の利用者さんのご家族と交流できる
などなど。
得るものが大きいと感じています。
今回も、いいご縁ができました。
参加している家族さんが、少しずつ、親から兄弟に移行してきています。
うちも、妹の私が参加。
偶然同じテーブルで食事をした方は、入所男性のお姉様でした。
すぐに打ち解けて笑い話で盛り上がりました。
そして、次第に内容が濃くなっていきます。
・親亡きあと、自分達も歳をとっていくこと
・入所の当事者が自分で健康管理ができない分、病気のリスクがあることへの不安
・世間、社会の偏見との葛藤
特に、タイムリーな話題として新幹線内での無差別殺傷事件があがりました。
犯人がどれくらい精神的に異常だったかを報道しています。
私たち障がい者サイドとしては、知的な障がいがあるだけでも奇異の目で見られますから、こういう事件が起きるたびに、胸がざわつきます。
犯人の異常性を浮き彫りにしていこうとする報道が、同じような症状で苦しんでいる人たちを追い込んでいるのじゃないかしら。
事件の背景にあるものは、それだけじゃないはずなのに。
犯人を異常者として仕立て上げていくマスコミの報道に辛くなると話されました。
うちはまだ女性なのでその点は救われるところがある。
男性の障害がい者さんに対しては、世間の目がさらに冷たいという事でしょうか。
もっとも、確認をとっている訳ではないので「そう感じている」だけかもしれません。
でもね、やっぱりまだ知的障がい者というのは、市民権を得ていないと感じます。
「何をするか分からない」
「何を考えているか分からない」
人は未知なものへの怖れというのを潜在的に持っているので、気味悪がられるのも仕方ないのかもしれません。
だからこそ、知ってほしいなと思うところがあります。
純粋で、感情に素直で、幼子のように無邪気。
そして、言葉にしないだけで深い世界をもっている彼ら。
とても美しい世界と、驚くほどダークな世界を、何の躊躇もなく行き来しているのです。
それは宇宙そのもの。
混沌の中に真実があることを生きながら見せてくれている素晴らしい存在です。
社会的には弱者であるけれど、私たちに生きる意味や強さとは何かを教えてくれるかれらは、神様が遣わせて下さった存在だと感じます。
『この子らを世の光に』
福祉への仕事を目指して学んだ短大で出会い感動したこの言葉。
知的障がい者の父と言われた糸賀一雄氏のこの思い。
「この子らに世の光を」ではないのです。
毎日の生活の中で、『共に在る』とはどういう事かを問うきっかけになったこの言葉。
出会いから30年たった今でも、私の中では大切な言葉です。
私が命や子どもの未来についての思いを語るのは、子ども達が大きくなった時に、今よりももっと、全ての人が生きやすい社会になっていて欲しいと願うからです。